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羽子板資料館(羽子板の鴻月)

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西山 鴻月 & 和宏
インタビュー
西山 鴻月 & 和宏 ニシヤマ コウゲツ & カズヒロ
NISHIYAMA KOGETSU & KAZUHIRO
羽子板資料館(羽子板の鴻月)
生年月日:[鴻月]1921年3月13日 [和宏]1962年10月18日
出身地:[鴻月・和宏]東京都
血液型:[鴻月・和宏]O型
趣味・特技:[鴻月]絵を描く(日本画) [和宏]スキー、剣道
好きな本・愛読書:[鴻月]美術に関する本 [和宏]歌舞伎に関する本
好きな映画:[鴻月・和宏]歌舞伎鑑賞
好きな言葉・座右の銘:[鴻月]温故知新 [和宏]心技体
好きな音楽・アーティスト:[鴻月]長唄(邦楽) [和宏]ロック
好きな場所・観光地:[鴻月]仕事場 [和宏]この街です。賑やかな空気があってこそ、羽子板作りが出来るっていうところがありますからね。
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■この道を志したきっかけや現在に至るまでの経緯をお聞かせください。
【西山 鴻月 さん】
私が小学校を出たあの頃っていうのは大体みんなどこかに丁稚奉公に行ってたもんなんですよ。呉服屋さんであったり魚屋さんであったり色々とね。で、私の場合絵が得意なもんでしたから、叔父に紹介されて南千住にあった羽子板職人さんの元へ弟子入りしたわけなんです。それが15歳の頃で独立したのが19歳の時。当時は浅草に工房を構えてたんですね。
その後、戦争があり、私自身も招集を受けました。昭和20年に終戦を迎えたわけなんですが、占領下の日本では一時、これまでの旧い文化が全て否定されるような空気があったんです。それは羽子板作りも例外ではなく、兄弟子達の中にも羽子板作りを断念する人が多くありました。
私は11人いた師匠の弟子のうち、一番最後なんです。特別頑固だったからなのか、どうなのかわかりませんけども、自分ひとり羽子板を作り続けてはや75年が過ぎたということになります。

【西山 和宏 さん】
「大きくなったら羽子板屋さんを継ぐのね」と小学、中学、高校と最後の最後まで言われて育ちました。ただ本人としては、「いずれ、そうなるのかな」という漠然とした気持ち以上ではなかったんですけどね。
もっとも、お手伝いは小さい頃からやっていました。いまはシャッターがありますけど、当時はトタン屋根のような重たいもので店の開け閉めをしていて、小学生になるとそれが自分の仕事になりました。品物を問屋さんに納めに千葉のほうまで電車で行ったりもしてましたね。
私が高校を卒業する1年くらい前のことだったと思うんですが、それまでコツコツ問屋さんの仕事をやっていた職人さんが表舞台に出るようになっていました。百貨店に赴いて実演をしたり、新聞や雑誌の取材があったりといった具合ですね。私の父である鴻月が海外に呼ばれたり伝統工芸職人として賞をいただけるようになったのもその頃からだったと記憶しています。
「これはやっても良い仕事なんじゃないか」と思ったのもその時代の流れがあったからだと思います。若かったですからね、そうした膨らみがあることが魅力に映ったんでしょうね。

西山 鴻月 & 和宏 西山 鴻月 & 和宏

■まずは押絵羽子板そのものについてご説明いだけますか。
【西山 鴻月 さん】
押絵と羽子板、これは元来全く別のものなんです。押絵というのは羽子板の前に付いている“技術”のことで、ボール紙に綿を入れ、それを布で包んで彩色を施したものです。これは室町時代に宮中の女官達が自分の着物で花や蝶々をこさえたことから始まってるんですね。
羽子板というのはご存知の通り羽根付きの道具で、これも室町の頃に文献に出てきます。で、この2つがいつ一緒になったかというと江戸時代、元禄以降と伝えられています。
当時、上方から歌舞伎がやって来て、江戸歌舞伎というものが確立しました。その時、これは推測ですけどね、おそらく浮世絵師あたりが「歌舞伎役者を押絵にしておめでたい羽子板にくっつけたら売れるんじゃねえか」と考えたんじゃないでしょうか。いまに続く浅草の羽子板市というのはそれが原点なんですよね。
全く別のものが歌舞伎という芸能によって合わさり、江戸の昔からそれほど形も変わることなく続いてきたということだと思います。

■押絵羽子板を購入されるお客様はどんな方々でしょうか?
西山 鴻月 & 和宏【西山 鴻月 さん】
土地土地によりますけども、女の子が産まれた初めての正月に羽子板を贈るという風習があります。東京はもちろん、北海道や九州からもご注文をいただくことがございますね。
それから先ほども少し申しましたが、いわゆる歌舞伎ファンの方が浅草の羽子板市等でお求めになるということがあります。自分の贔屓の役者さんが描かれた羽子板を買っていかれるんです。

【西山 和宏 さん】
あとはお土産です。変わった形としては日本のヨネックスというバトミントンやテニスのラケットを作られている会社から依頼を受けたことがありました。
当時、イングランドのバトミントン協会が100周年を迎えるということで、「日本のバトミントンは何か?」となって羽子板が選ばれたんです。あちらはガットが張ってあって、こちらは板ですけども、羽根付きから派生した起源は一緒といえば一緒ですからね。
これは蛇足ですけどもね、その100周年記念大会で日本人が初めて銀メダルをとったそうなんです。「羽子板のおかげかね」と皆さん話されたそうですよ(笑)。

■押絵羽子板作りにおけるこだわりをお聞かせ下さい。
【西山 和宏 さん】
押絵を作る際にはまずボール紙を切って形を作っていくわけですが、これをミシンで一気に切っていくところもあるにはあります。そちらでは要はただ、あらかじめ入れてある線をなぞって切っていくだけなんです。
私どもは1本ずつハサミで丁寧に切っていきます。これは女性の手なのか、それとも男性の力強い手なのか。武士なのか、町人なのか、考えながら切っていくわけです。
単にボール紙を切るというだけのことですが、そこに思いを込めてやるかどうかで全く違ったものになります。地道なところに気を使っていくことで、長く手元に置いておきたいと思っていただける羽子板が出来るのだと考えています。

■最後に地域の皆様にメッセージをお願い致します。
【西山 和宏】
ちゃんとした仕事を経た羽子板は長く残すことが出来るし、仮に壊れたとしても修理が可能なんです。これが大量生産のものであれば板から剥がした時点でもうバラバラになってしまうんですね。羽子板はその方の思い出と共に残っていくものですから、もし修理のご入用があれば遠慮なくお訪ねください。心を込めてお直し致します。

【西山 鴻月】
よく、「羽子板を買っても飾るところがない」と仰る方がいます。要は場所がないと仰るんですね。昔であれば床の間がその場所に当たるんですが、必ずしもそんな大層な場所でなくてもいいんです。羽子板だけを飾ると考えるから億劫になるのであって、例えば3月にはおひな様を、5月には兜をって具合に小さくても構わないからお家に飾る習慣を付けてみたらいかかでしょうか。
靴箱の上でだっていいんです。1年間、日本の四季折々の文化を楽しむ場所が家にあるとしたらそれは楽しいと思うんですよね。子供にとってはその記憶が自分が親となった時に重なってくるもんです。差し出がましいようですが、それが伝統を守るということではないかと思っています。

※上記記事は2012.2に取材したものです。
情報時間の経過による変化などがございます事をご了承ください。

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